聖書改ざん箇所修復の試み  ・・・・・ 聖書における キリストの神性と 神の三位一体の回復

                                                                 2014 5月5日

                                       (続編) →  聖書改ざん箇所修復の試み(2)



  1. 現代訳聖書の改ざん(改竄)の実態:


  すでに 原始キリスト教の時代から、グノーシス異端 ・・・ イエス様の「神性」を否定、あるいは、「完全な人として来られたこと」を否定する、のどちらか一方を主張する異端 ・・・ が存在し、それらの教団に影響された 新約聖書が存在していました。使徒ヨハネ等は、これらの教理的異端と戦う働きをしていたことが、ヨハネの手紙第一などに書かれてあります。

  聖書のギリシャ語への写本キリストを記述する特徴から分類され、特に、アレキサンドリア型 といわれるギリシャ語写本は、イエス様の「神性」を低くする、または否定するような単語の用い方に改ざんしたり、聖句を部分的に削除したり、グノーシス的な特徴を押し出した編纂になっています。
  これに対して、ビザンチン型では、9世紀からの聖書に用いられ、宗教改革時のプロテスタントの聖書(+ ギリシャ正教(ビザンチン本文))が翻訳され、KJV(英国欽定訳、1611年、1769年)等の伝統的旧・新約聖書となりました。(他に、シリア型などがあります)
  この正しいビザンチン型と、改ざんを受けた アレキサンドリア型では、旧・新約全体で5000箇所もの相違点があります。


  ・ 旧約聖書は、1947年にクムラン教団の洞窟から 『死海写本』死海写本イザヤ書)が発見され、BC250−AD70のいずれかの期間(炭素14同位体分析などによる)に書かれた イザヤ書の全文と、モーセ五書、預言書、詩篇などの部分が、旧約の外典、偽典、注解書、クムランの典礼書とともに明らかになりました。その旧約聖書の内容は(字体がアラム語に近く、HやWなどの挿入が所々にある程度で、)、ユダヤ教徒に伝承されてきた マソラ本文(ほんもん)と、驚くべきことに1900年を経てほとんど内容が変わっていないことが確認されました。確かに、ユダヤ人は、によって みことばを託された民であることが言えます。
  そのため、現在のキリスト教の旧約聖書のほとんどは、マソラ本文から直接の翻訳を使用しています。(新共同訳は、外典以外は、ビブリアヘブライカ シュツットガルテンシア(ドイツ聖書協会)を、外典は70人訳を、それぞれ底本としている)

  ギリシャ語への 70人訳旧約聖書(セプチュアギンタ)は、ファラオの命令により、BC4〜5世紀に書かれたヘブライ語聖書を、BC3世紀からBC1世紀にかけて段階的に訳されたもので、原典に忠実でない部分(誤訳、意訳、意図的な改竄など)を多く含んでいます。部分的に正典聖書、大部分を外典に用いられている。


  ・ 新約聖書は、ギリシャ語の3大写本として、
  アレキサンドリア写本(5世紀前半 → そのまま伝承、 旧約:70人訳、+ 新約、 記号:A)、
  バチカン写本(4世紀 → そのまま伝承、 新・旧約ギリシャ語、 黙示録 および 公同書簡(ヤコブ、Tペテ、Uペテ、Tヨハ、Uヨハ、Vヨハ、ユダ)を含まない、 記号:B)、
  シナイ写本(1844年発見、 4世紀・最古の写本、 旧約:70人訳 + 新約のほとんどを含む、 記号:アレフ) ・・・ 特に、誤写と 意図的な改ざんが多い(シナイ写本とバチカン写本の検証
が知られています。
  しかし、アレキサンドリア写本は、福音書のみがビザンチン型で、残りはすべてアレキサンドリア型、 また、 バチカン写本、シナイ写本はすべて アレキサンドリア型です。



  ここで、19世紀イギリスの、”現代訳聖書の父”とも呼ばれている ウエストコットおよびホートによる”ギリシャ語訳新約聖書”(1882、1892)は、当時のシナイ写本の発見(1844)もあいまって、これらのギリシャ語訳写本を用いて編纂し、イエス様の神性を否定する グノーシス異端が聖書に入り込むことになりました。(ウエストコットは、ケンブリッジ大学教授の一方、ニューエイジ運動の発起人、 交霊術をするオカルティストでもあり、敵に用いられた悪魔 ・・・ 最期は麻薬中毒で死んだそうです。 霊の見分けによると、最悪レベル。)

  さらに20世紀には、(毎度おなじみ)ロックフェラー(=にせユダヤ)配下の ロックマン財団が、多くの現代訳聖書出版(ASV、RSV、NASV、NIB、リビングバイブル等)を手がけてきました。 このように、この150年間、イルミナティーに影響された”改悪版聖書”が多く 世に送り出されることになりました。エホバの証人、モルモン教などの米国系の異端グループは初めからイルミナティーの一部です。

  正しい KJV(KingJames Version、英国欽定訳(1611、1761))NKJV(新ジェイムズ王訳(1982) ・・・『国際ギデオン協会聖書』にも用いられている)と比べ、たとえば NIV訳では、相違箇所が旧・新約全体で5000箇所、キリストの神性の削除が 新約だけで135箇所もあります。

   *  対NIVの削除箇所表  これは改ざんの一部でしかありません。現在 米国では、反対運動から、NIV訳は出版停止になっています。
  さらに、異端宗派(エホバの証人など)や カトリック・マリア派の聖書改ざん・削除は、これに加えてひどいものがあります。


  ・ 日本語の聖書では、文語訳聖書の明治元訳(旧約)だけが健全で、文語訳・大正元訳(新約、大正4年)からは アレキサンドリア訳を底本としたものとなり、その後の、口語訳(昭和29年)、新改訳、新共同訳(これは旧約聖書も70人訳)もすべてこのグノーシス異端の影響を受けています。
  (アレキサンドリア写本は、福音書だけは かなり正しいと思われますが、明治時代、松江バンドで、上記のウエストコットの講義を受けたバークレーバックストンが翻訳したので、英語からの文語・新約聖書は初めからあまり良くないはずです。(*))

  日本で福音がなかなか宣べ伝わらないのは、一つには、聖書に原因があるのかもしれません。特に、聖句を記述する文体・文面の力強さ、教理にそのまま影響する訳語、など。ただし、文語旧約は 「」をすべて「エホバ」と訳していて読みにくいのが欠点です。

  * 戦前あった 新約のドイツ語−日本語翻訳原典は、ほとんどすべてが戦災で消失し、1冊だけを天理教が持っているそうです。





  2. 重大な改ざん箇所と その修復:


  聖書の「翻訳」が間違っていると、歴史的に現れたそれぞれの「教理」にも影響を及ぼしてきます。特に、教理的な間違いを引き起こす、あるいはその可能性がある箇所を、気が付いた部分だけ記述してみました。
    (参照)  ワードプラネットは、英語が KJV、        聖書箇所の Photo



  1) Tテモテ3:16

  これは、英国王ジェームズ一世が KJV編纂の命の後死去し、その3年後(1627年)にアレキサンドリア写本が届きましたが、Tテモテ3:16の記述が異なっているので、当時から議論を呼んだ箇所です。
   「キリストは肉において現れ、霊において義とせられ、御使たちに見られ、諸国民の間に伝えられ、世界の中で信じられ、栄光のうちに天に上げられた。」(口語訳)

   この下線部: 「God was manifest in the flesh, justified in the Spirit, seen of angels, preached unto the Gentiles, believed on in the world, received up into glory. 」(KJV)

  この「神は」の箇所が、  KJVで 「God」ですが、 これに対し、 シナイ写本の英語訳(→)で 「He」(多くの英語訳で「He」を使う)、  そして、ギリシャ語原語では 「it」 すなわち「それ」 となるまで落とされている。(ギリシャ語: 「神」=ΘC(Θεοσ、テオス)、「それ」=OC(Ουτοσ、フートス) ”それ”とはあまりにもひどいので、日本語では「その方」、あるいは「キリスト」と訳されています。

  ここで、「God」は 冠詞が無くヨハネの福音書1:2、3(→ キリストの根源的ご性質 1.(4))と同様に、形容詞的に用いられています。・・・「神というお方は(神なる方は)、肉体をとって現れ、」  もし、エホバの証人のように”a God”(特定の神、ある一つの神)とするならば、キリストの神性の否定、あるいは、多神教に行き着くことになります。

  (アレキサンドリア写本だけは、福音書のみ、ビザンチン型)



  2) Tヨハネ5:7、8

  ヨハネの手紙第一は(・ ヨハネの福音書と文学的に同じ著者といわれる。手紙第二、第三は必ずしもそうでない。)、当時のグノーシス異端への対応を中心テーマの一つとして記述しています。それゆえ、かなり初期の段階で、改ざん・削除の標的にされたと思われます。

   「7  For there are three that bear record(*) in heaven,  the Father, the Word, and the Holy Ghost:  and these three are one.
 8  And there are three that bear witness in earth,  the Spirit, and the water, and the blood:  and these three agree in one. 」(KJV)

   *  bear record ・・・ bear:帯びる、生じる  record:記録(re−cord: 再び 心に戻る)  →  「天の万物に刻まれているように、」

  この箇所は、アレキサンドリア型 および その派生訳のすべての聖書では、7節が丸ごと削除され、8節の内容が7節にまたがって書かれています。KJVの7節では、明らかに、における「神の三位一体」がはっきりと記述され、それに対応する形で、「地上では、御霊と 水((難解!))と 血が 一つとなってあかしする」となっています。

  * ワードプラネット上では、英語(KJV)の他、ギリシャ語、ポーランド語、チェコ語、タイ語、タミル語、ルーマニア語( )つき、アイスランド語[ ]つき、オランダ語、アラビア語、ハンガリー語、アフリカーンス語、ウクライナ語等では明記されています。日本語(口語訳)では欠けています。
  ** 日本語訳では、文語訳、口語訳、新改訳、ニューバイブル、新共同訳 のすべてが欠けています。


  8節の「水と血」とは、最も難解な箇所です。 イエス様の水のバプテスマと 十字架の血、あるいは、イエス様が十字架で死なれたときにわき腹から出た血清(「水」)と血餅(けっぺい、「血」)(ヨハネ19:34) という説がありますが、7節の三位一体に対応して、御父=「水」(?)、ことば=「血(人として来られたイエス様、血はいのち)」、聖霊=「御霊」、とした方が良いかもしれません。

  古い文語訳(舊新約聖書、1995年再版、日本聖書協会)では、8節は、(→ 聖書 photo)
     「證(あかし)するが三つ」
とあるので、「物」ではなく、父・子・聖霊のように、それぞれの「人格者」を表しています。(これも、残念ながら 7節は削除されている)
  また、KJVの注釈より、ヨハネ5:32を参照すると、「御子は 御父とともに証言する」とあります。

  すなわち、イエス様が十字架で死なれたときにわき腹から出てきた「水」と「血」が分離していたことは(医学的には死ぬと自動的に分離する)、「御父」と「御子」が 十字架上でひと時分離されていたことを象徴しているのではないかと考えられます。実に、イエス様にとって、永遠の初めから常に一緒だった御父と、たとえ一瞬であっても分離されることほど おぞましいものは無かったということです。主は、ゲッセマネの祈りにおいて、「血の汗」を流されるほどに深く恐れられ、そして、祈りで勝利されました。(分離されたとき、「エリエリ、レマ、サバクタニ」(マタイ27:46)。もちろん、その後、十字架上で御父とふたたび一緒になられました。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46))  →  十字架上の7つの言葉 4.
  ∴ 地上では、主は、ご自身の血の代価をもって買い取られる「救い主」でおられることを、特に表していると思われます。


  Tヨハネ5:7は、4−5世紀にはすでに改ざんされ、本来は、神の三位一体をかなり直接的に表していた箇所と考えられます。聖書における 「3」、「1」という数字には特別な意味があり、ふさわしいものが当てはめられ、調和するべきだからです。
  (参考)  ・ 地の万物に刻まれた「自然啓示」もあかししています。  「三位一体の神は 愛」 ・・・  iπ = −1 (オイラーの恒等式)




  3) マルコ16:9〜20

    「15  そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。
    16  信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。
    17  信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し新しい言葉を語り(*1)、
    18  へびをつかむ(*2)であろう。また、(*3)を飲んでも、決して害を受けない病人に手をおけば、いやされる。」(口語訳、△)

  この箇所は、信じるすべての者について、伝道に伴うしるしについて明記された箇所です。しかし、アレキサンドリア型の写本では、この箇所が欠落しています。おそらくグノーシスの思想を持つ者たちが意図的に削除したと思われます。 アレキサンドリア訳を基にする現代訳の聖書では、この9−20節を括弧に入れて、信憑性が少ないように見せていますが、歴史的事実は、逆です。
  Tコリント13:10の曲解教理と同様に、敵による、反カリスマの意図が見られます。(↓ 4) )

  *1 「新しい言葉」 = 「異言」(旧約時代には無かった聖霊の働き)
  *2 「蛇をつかむ(△)」は、ビザ型ギリシャ語聖書では、「οφεισ (受・複・男、serpents) αρουσιν (未来・主・3・複、take up, raise, remove)」 = 「彼らは 蛇どもを 上げる(=十字架にかけるようにして 上げて 除く)であろう」 となる。 この「蛇」とは、動物の蛇ではなく、創世記3章の「(サタンのような)誘惑系の悪霊」 = 特にサタン的な「高慢」、「ねたみ」、「作り話・噂話」などの霊、と解釈できる。 ⇔ :17 の「悪霊」は、一般的な悪霊(病、偶像崇拝など)。 この場合、「手」によってではなく、「みことば」によって撃退する。(マタイ4:1−11)
  (cf. アレ型(改ざん)ギリシャ語聖書では、「εν(by) ταισ(<ο、 that) χερσιν(<χειρ、hands)」 = 「手によって」 という余計なものを前に追加している(×))

  *3 「θανασιμον = 致命的な(毒殺用の)毒」のこと



  4) Tコリント13:10

   「全きの来たらん時は、全からぬものは廃(すた)らん。」(舊新約聖書、1995年再版、日本聖書協会)  (→ 聖書 photo)

  Tコリント13:10 の箇所は、福音系の”契約神学”で曲解されている典型的なみことばの箇所の一つです。この「全きもの」を「聖書」ととると、”現在は聖書が完成している時で、御霊の賜物の働きは 聖書の完成と共にすたれた。だから、現在は、もう御霊の賜物は必要ないのだ。”という にせ教理の解釈に陥っています。

  ところが、「全き」というように、人格者で書かれています。すなわち、自動的に、再臨の御子イエス様のことです。聖書ではありません。 イエス様が再び来られるときまでは、御霊の賜物は必須、熱心に求めるべきものということになります。

  さらに、KJV のスコフィールドによる脚注を見ると、Tヨハネ3:2に行っています。
   「2  愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。」
  明らかに、再臨のイエス様です。 ・・・ Tコリント13:10では「賜物」について、Tヨハネ3:2では「品性」について、同じ文章の形になっています。

  反カリスマの霊に影響されるならば、(特に、ねたみによって悪霊呼ばわりするならば、)「聖霊を汚す罪」という 赦されない罪を犯して、救いを失う可能性があります。( → 5.十字架の力(3)




  5) マルコ9:44、46、48

   「44  Where their worm dieth not, and the fire is not quenched.
   45  And if thy foot offend thee, cut it off: it is better for thee to enter halt into life, than having two feet to be cast into hell, into the fire that never shall be quenched:
   46  Where their worm dieth not, and the fire is not quenched.
   47  And if thine eye offend thee, pluck it out: it is better for thee to enter into the kingdom of God with one eye, than having two eyes to be cast into hell fire:
   48  Where their worm dieth not, and the fire is not quenched. 」(KJV)

  本来の聖書では、44、46、48節と、3回も 「地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。」と、罪の報いによる、ゲヘナでのさばきの恐ろしさを 非常に強く語っています。(=イザヤ66:24) 口語訳では括弧書きで3回、他は1回のみ。 (cf. マタイ10:28では、この記述は初めからありません。ポイントが別にある為 ・・・ 伝道、あかしをすること、人を恐れてはならない、の意)
  一方、”主の再臨も、地獄も無い” という教理は、グノーシスの一部や、エホバの証人等の異端では、しばしば主張されることです。「黙示録」さえ、まるごと否定してしまっています。に対して生ぬるくし、主のさばきの要素を否定しています。



  6) Uペテロ3:10

   「10  しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体(×)は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。」(口語訳)

   「10  But the day of the Lord will come as a thief in the night; in the which the heavens shall pass away with a great noise, and the elements(=構成要素、原子) shall melt with fervent heat, the earth also and the works that are therein shall be burned up. 」(KJV)

  エホバの証人は、HPの”バチカン写本”を礼賛しています。この写本に ペテロの手紙第二が無いからです。
  バチカン写本は、黙示録 および 公同書簡(ヤコブ、Tペテ、UペテTヨハ、Uヨハ、Vヨハ、ユダ)を含まない。

  しかし、自然啓示を見ると、神様の厳然性が分かります。 相対性理論によると、物質は膨大なエネルギーと等価(質量公式: E=mc2)で、何かのきっかけで核融合が起こると、それが地球全体に伝わって、とんでもない膨大なエネルギーに変化します。(1g(1円玉の質量)がすべてエネルギーに変わったとすると 広島型原爆1個分に相当するエネルギーになる。 太陽の中心核では 重力によって高温・高圧になって、常に水素核融合が起こっている。)



  7) ルカ11:2−4 ・・・ 「主の祈り」の箇所 + マタイ6:9−13

  「2  And he said unto them, When ye pray, say, Our Father which art in heaven, Hallowed be thy name. Thy kingdom come. Thy will be done, as in heaven, so in earth.
  3  Give us day by day our daily bread.
  4  And forgive us our sins; for we also forgive every one that is indebted to us. And lead us not into temptation; but deliver us from  evil.」(KJV)

  下線の部分が、NIV訳、口語訳、新改訳などで削除されています。これは、解説では、「御国が来ますように」の”補足”とありますが、独立した 必要なみことばです。「主の祈り」の全体は、この2つ(「御国が来ますように。」と「御こころの天でなされるように、地でもなされますように。」)に 集約されます。 教会で祈る 主の祈りは、マタイのほうが用いられます。

     ルカ11:2 直訳  「あなたの意志が天でなされるように。そのように、地でも。」 ・・・ be done
  cf. マタイ6:10 直訳  「あなたの意志が天に(常に)あるように、地でなされるように。」 ・・・ as it is in heaven

  * ただし、KJVでは、4節の evil (悪、邪悪・・・抽象名詞)なのに対し、 口語訳では、「悪しき者」(=サタン、悪霊)となっていて、こちらの訳の方が正しいです。
  「Hallowed be thy name.」 は、直訳で 「御名が であれ」。 「御名が崇められますように」の定型文。




  8) ダニエル12:4

  ヘブライ語の別訳で、 「ダニエルよ。 これらの言葉は、多くのものが動き回り 知識が増加する 終わりの時まで、書物として封じられる。」

  すべての聖書に書かれている訳文では、何を言っているのか分かりません。ユダヤ教のマソラ本文でも、旧約聖書でも、ダニエル書が 特に隠されたわけではなかったからです。 これは、古代ヘブライ語の解釈の一つです。(多くのものが動き回り=男性・複数、 ひとつの情報が増し加わる(女性・単数) で、別々の文。これらが、終わりの時まで にかかる。)

  現代は情報通信、インターネットの時代です。 (変な情報もありますが、) 神様からの良い知らせ =「福音」 が、全世界に飛び交う時代になっています。 同時に、ダニエル書をはじめ、(黙示録を含めた)終末預言が正しく解釈される時になっています。

  



  9) エゼキエル27:7

   「あなたの帆はエジプトから来るあや布(△)であって、あなたの旗に用いられ、あなたのおおいはエリシャの海岸から来る青と紫の布である。」(口語訳)

   「7: Fine linen with broidered(刺繍された: ヘブライ語の原文 RQMH(リケマー) 刺繍) work from Egypt was that which thou spreadest forth to be thy sail; blue and purple from the isles of Elishah was that which covered thee. 」(KJV)

  下線部の訳が抜けています。これは 「エジプトで刺繍が施された布」です。 cf. アロンの亜麻布の市松模様の長服・帯に刺繍(出28:39)、他に(エゼ16:10)

  (語句)  セニル (フェニキヤ東方の山脈)・・・ エモリ人はセニルを ヘルモン山と呼び、 シドン人はセニルを シルヨンと呼んだ(申命記3:9)
         キティム = キプロス島、  (上質の)綾織の布 = 王の衣服の布が贅沢にも帆に用いられた、 エジプトは 亜麻布の原産地、
         エリシャ (ヤワンの子 = ギリシャ、イタリア、シチリア、カルタゴ 創世記10:4)
        シドン ツロの北方の海岸沿いの古い港町、  アルワデ さらに北の島にある港町、  ゲバル シドンとアルワデの中間にある町
        (8: (口語訳)ゼメルの人々よ△ = ツロよ、 (KJV) O Tyrus, )
        「熟練者」 = (直訳)『賢き者』  ・・・ 外国に全面的に頼るのではなく、その主要メンバーはツロ国内の経験あるものたちで占められていた

  まず、預言されている時代がいつであるかを特定しなければなりません。エゼキエル書25〜39章は、「異邦の国々 + イスラエル」に対する一連の預言になっています。そして、よく知られているように、不死鳥の民として、1947年にイスラエル国が再びパレスチナに樹立したことにより、エゼキエル36章が成就しました。(さらに次の、37章は、残りのエフライム(=10部族)の帰還の預言であり、成就しつつあります。)
  すると、この一連の預言は、終末時代の直前の、まさに現代になってしまいます。現代の時代で、この「ツロ」に匹敵する国は 日本しかありません。(BCの昔の成就とあわせて、2重預言ただし、ツロはバビロンによってではなく、マケドニアのアレキサンドロスによって滅亡したので、1回目は完全な成就ではなかった。
   ・・・ エゼキエル26−28章の詳細を、今の日本の状態に照らし合わせてチェックしてみてください。

  現在の日本は、それでも基本的には”技術立国”、”貿易立国”です。イスラエルのソロモン王の時代には、「ツロ」の航海技術が大活躍しました。
  そして、上記の「エジプトで刺繍が施された布」が一つの重要なしるしであって、軍艦の帆布に用いられたように、軍事的には”安保”という、「エジプト」=アメリカの いわば傘下にある位置付けを表しています。(ただし、経済的には そうではありません。(”TPP”等×) 「国々の民の門」(エゼ26:2、エルサレムを通過するときの税関)とあるように、大部分の貿易は、陸路を通って行われていました。)



  10) Tテサロニケ4:16

   「15  わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。
   16  すなわち、主ご自身が天使のかしらの声神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で(×)、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、
   17  それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。」(口語訳)

   「15  For this we say unto you by the word of the Lord, that we which are alive and remain unto the coming of the Lord shall not prevent them which are asleep.
   16  For the Lord himself shall descend from heaven with a shout, with the voice of the archangel, and with the trump of God: and the dead in Christ shall rise first:
   17  Then we which are alive and remain shall be caught up together with them in the clouds, to meet the Lord in the air: and so shall we ever be with the Lord.」(KJV)

  日本語への訳し方が良くなく、これでは最初の御使いの叫び(黙10:3)で携挙(・・艱難期 前 の!×)がなされることになります。KJVによる(上記の)太線部には順番の指定がなく、並列に書かれています。黙示録には、その順番まで明確に書かれています。

  @ 「主は、号令(=(一回の)叫び a shout)と、」 ・・・ 「ししがほえるように大声で叫んだ」+「7つの雷」+「小さな巻物(=黙示録の挿入部:11〜14章))」(黙10:2、3)
  A 「神のラッパの響きのうちに、」 ・・・・ 「神の第7のラッパが響くその日、神の奥義(=空中携挙)が成就する」(黙10:7)
  B 「御使いのかしらの声」 ・・・・・ 「かまを入れて刈り取ってください」(黙14:15)

  ラッパは主の再臨に伴う重要なしるしです。「主は大きなラッパの響きと共に御使いを遣わし、選びの民を集める。」(マタ24:31)
  また、この空中携挙のとき、生き返った死者(=主の祭壇の下にいた殉教者の霊たち(黙6:9)を含む)も 生きている者も、同時に 「朽ちない体に変えられます。」(Tコリント15:51、52 の「奥義」)
  イエス様はその後、さばき主(黙19:12)として、オリーブ山に降りて来られ(使徒1:11)、大きな地震が起こり山は裂け(・大地溝帯がオリーブ山の中央を通っている)、エルサレムの東の門=黄金門を通って入城されます。(ゼカリヤ14:4) そして、「主を突き刺した者(ユダヤの人々)」は特にそれを見ます。
  第7のラッパが響く時とは、ラッパの日(ユダヤ暦7月1日=9月15日あたり ・・・ 最初のラッパが響く時)と、贖いの日(ユダヤ暦7月10日)に、間隔があることと一致しています。(レビ23:24、27) その後の「仮庵の祭」は、「千年王国」の雛形です。
                                                     →  イスラエルと終末の流れ

  * いわゆる”艱難期 前 携挙説”の間違い:  ”携挙”という言葉は聖書には出てこないが、キリストの再臨に伴って起こるさまざまな出来事を表わす一つの”現代用語”である。この教理は、1830年以 前には存在しなかった教理で、ある婦人(スコットランド出身のマーガレット・マクドナルド)が見た幻を何人かの神学者が宣伝したものであり、有名 な説教者においても賛成反対が分かれた。(賛成:スポルジョン、ジョージ・ミュラー、チャールズ・フィニーなど、反対:ジョン・ウェスレー、 ジョナサン・エドワーズ、マシュー・ヘンリー、など) 正しい聖書の福音書や黙示録の全体的な構成から、艱難期前の携挙はあり得ないと考えられる。
    (参考)  レムナントの記事(一回のみの 艱難期 後期 携挙)



  11) 箴言8:22

   「22  主が昔そのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わたしを造られた(×)。」(口語訳)
   「22  The Load brought me forth as the first of his works(×), before his deeds of old.」(NIV)

   「22  The LORD possessed (○)me in the beginning of his way, before his works of old. 」(KJV)

  KJV: Possess ・・・ 力の座に座る(ラテン) ( → 捉える、とりつく → 所有する、に変化)
  poti- 力強い者、君主、 sed- 座る(=sit)、据える   ・・・ ”造った”(文語、口語)とは絶対なりません。

  「主は、古いみわざの前の、: before his works of old. ・・・ 天地創造以前の創造
  主の道筋の初めから、: in the beginning of his way ・・・ さらにそれ以前の初めから、
  私の力の座に座られていた。: The LORD possessed me 」 ・・・ The LORD : 旧約の主(ヤハウエ)は御父とも御子ともなる

  ・・・ この「私」とは、(ソロモンが預言したとはいえ、事実上)御子イエス様のことです。 イエス様は 被造物ではありません。永遠の初めからおられた創造主、「」です。

    

  さらに、この直後のみことばとして、御子イエス様が、御父と共に 天地万物を造られたことが記述されています。このことは、創世記1:1(上のみことば)と 1:2以降(↓) との間にギャップがあることを示しています。(→ 聖書改ざん箇所修復の試み(2) の 8) 創世記1:1、2 )

   「神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれた(π: 電子軌道、回転の法則・スピン、天体の軌道運動)とき、わたしはそこにいた。 ・・・・ わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者: 波動、量子力学、あるいは、統計力学的組立て)であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。」(箴言8:27−31)
   (KJV) 「30  Then I was by him, as one brought up with him: and I was daily his delight, rejoicing always before him; 」

  因みに、”地動説”も あらかじめ 聖書に記されていたことは有名です。

   「7  彼は北の天を虚空(THW)に張り、(ERTs)を何もない所(BLY‐MH)に掛けられる。」(ヨブ記26:7) ・・・ THW トーフー = 形を成さないもの、虚空(=創1:2)、  ERTs エレツ = 地、地球、国、  BLY‐MH ベリー・マー = 何も無いこと
   「7  He stretcheth out the north over the empty place, and hangeth the earth upon nothing.」




  12) ヨハネ8:24、28、58、 18:6、8、 (4:26)、 マルコ14:62、 ルカ22:70、 黙2:23

   「24  だからわたしは、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬであろうと、言ったのである。もしわたしがそういう者であること(×)をあなたがたが信じなければ、罪のうちに死ぬことになるからである。」(口語訳)
   「28  そこでイエスは言われた、「あなたがたが人の子を上げてしまった後はじめて、わたしがそういう者であること(×)、また、わたしは自分からは何もせず、ただ父が教えて下さったままを話していたことが、わかってくるであろう。」(口語訳)
   「24  I told you that you would die in your sins; if you do not believe that I am the one I claim to be(×), you will indeed die in your sins.」(NIV)

   「24  I said therefore unto you, that ye shall die in your sins: for if ye believe not that I am he(△), ye shall die in your sins. 」(KJV)
   「28  Then said Jesus unto them, When ye have lifted up the Son of man, then shall ye know that I am he(△), and that I do nothing of myself; but as my Father hath taught me, I speak these things. 」(KJV)

  ・・・・ これは、直訳((ギ) εγω  ειμι = エゴー エイミ = 私がある(○)、 → The Holy Bible (Greek))より(改ざん写本のシナイ写本でさえも、これは例外的に、同じく、εγω  ειμι(エゴー エイミ)となっている。 KJVは当時のヘブライ語からの訳が一部弱かった。)

  「わたしが『わたしは ある』という者であることを信じなければ、」となって、出エジプト3:14で、が 燃える柴の火からモーセに自己紹介された時の言葉、
    「エヘイエ アッシェル エヘイエ = I am that I am. = わたしは、私は在るという者である。」
という箇所をさして言っています。(特に、”モーセの座”についていたパリサイ人などの宗教指導者たちに言われましたが、現在の聖書改ざん者、曲解する者たちにも同様に語られています。)
  イエス様は、旧約聖書でモーセに現れた神、「主(ヤハウエ)」と同じであること(=神の三位一体)を、ここで あかしされました。(↓ 英語-ヘブライ語(マソラ本文)対訳、 注)70人ギリシャ語訳では間違い)

     
  この、EHYEは、未完了相の1人称・単数・男性(I am, I was, I will be)であり、永遠の昔から 永遠の未来まで 在り続ける という意味が含まれています。 3人称の場合は、「YHYH、イヘイエー」を経て、 「YHWH、ヤハウェ」。
  ( → 主の御名 )

  ・ ヨハネ18:6、8でも同様に、
   「わたしがそれ(×)だ」(ヨハネ18:6、8) = 「εγω  ειμι」 = エゴー エイミ」
    = 私がある(○)=「I AM THAT I AM」(○)(The Holy Bible (Greek)) = 「わたしは「ある」という者だ」


  ・ ヨハネ8:58 では、KJVにも、 「Before Abraham was, I am. 」 ((ギ) 「Πριν γινει ο Αβρααμ εγω ειμαι. 」、 (NKJV) 「Before Abraham was, I AM.」)であり、正しく記述されています。
    ・・・ I am とは、現在形で、その前の Abraham was の過去形と異なるので、出エジプト3:14の固有名詞を指すことになります。


  ・ マルコ14:62、ルカ22:70 ・・・ ヨハネ以外の福音書でも、 大祭司らが尋ねたとき、イエス様が、「わたしは、それです。」(×、新改訳)と答えられた箇所が、 「that I am」(KJV)、 「εγω ειμι」(ビザンチン型ギリシャ語聖書) であり、  「わたしは 『ある』という者だ。」 となります。


  ・ 黙示録2:23  テアテラ教会に対して、主イエス様が、「在りて在る者」として語っておられます。
  「οτι εγω ειμι ο ερευνων  νεφρουσ  και  καρδιασ」
  「that I am he (△、在る者) which searcheth the reins(手綱×) and hearts(△)」(KJV)
    ・・・ νεφρουσ 腎臓 = 感情の座、 καρδιασ 心臓 ・・・ 知性の座 と当時考えられていた

  cf. ヘブル4:12  ψυχησ τε και πνευματοσ (プニューマトス)  soul and spirit 魂と霊
     Tテサロニケ5:23  το πνευμα (プニューマ) και η ψυχη και το σωμα spirit and soul and body 霊と魂と体






   (まとめ)

  特に聖書を改ざんする動きについて、グノーシス異端を初めとする 歴代の反キリスト的な異端の流れは、ここに来て暴露されました。 このように、彼らが押しとどめようとしたことによって、今の時期 特に必要な みことばの真理の部分が、逆に明らかになりました。それは、

  ・ イエス様の「神性」、 ・ 主が教えられた「祈り」の箇所、 ・ 御霊の賜物の必要性、 ・ 地獄と さばきの描写、 そして、 ・ 三位一体(父と子と聖霊) です。



    (参考)       ワードプラネットは、英語が KJV、        聖書箇所の Photo

               ルター訳(1545年)等の古典訳一覧との比較

   死海写本(イザヤ書1−66章)○    英語-ヘブライ語(マソラ本文)対訳(出エジプト3:14)○   The Holy Bible (Greek)(ヨハネ8:24、28)○

         cf. シナイ写本(Tテモテ3:16(×))       StudyBible 70人ギリシャ語訳(出エジプト3:14(×))
            明治元訳聖書(新約・アレキサンドリア型△)(Tコリント13:10「者」250コマ、Tヨハ5:7(アレ型)355コマ)



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